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黄レ麗:第七十六話:こころ

職員室を出る二人。
学校の先生方は祭りのあとのように三々五々に散っていく。
溜まっていた用事を思い出したのか、夢から覚め、急に現実に引き戻されたように、険しい顔を伴い急に慌ただしそうだ。
そんな様を僕はなんとなく見ていた。
先生に促されるまま僕は下駄箱まで二人を見送る。
(何があったのか聞きたい・・・でも・・・)
「じゃあ・・・先生」
「あー、悪かったね呼び出して」
「いえ」
「次の稽古は何時だっけ?」
「え?・・・何時もと同じですから明日です」
「そっか、明日か。明日は二人で来なよ」
先生はレイさんと僕を見た。
彼女は少し躊躇ったように見える。
「はい」
(この躊躇いは何を意味するんだ)
「わかりました」
先生は本当に彼女を弟子にしたいんだ。
でも先生は知らない。
彼女が月謝を払えるほどの余裕が無いことを。
ひょっとしたら日常生活すら儘ならないかもしれない。
不意に彼女の容姿を思い出す。
(どうして今まで気づかなかった・・レイさん・・・生活出来ているんだろうか。まさか・・・でも・・・)
稽古どころではない。
(そうだ)
だから彼女は躊躇ったのかもしれない。
僕もレイさんと一緒ならどれだけ嬉しいか。
でもそれは叶わない。
(そもそも彼女が書道に興味があるとも思えないし)
通っている僕ですら興味があるかと問われたら、やっぱり無いんだと思う。僕の興味は先生にあるんだろう。それも違うか。単に・・・楽しいだけだ。先生と話しているのが。
(失礼かもしれないけど、僕は先生をいいように使っているだけかもしれない)
そうだ。
僕は他の大人達が答えてくれないことを先生が何でも応えてくれるから便利に使っているだけじゃないんだろうか。
だとしたら、それはとても失礼なんじゃないか。
先生がどうしてあんなにも書道を好きなんだろうか今でも判らない。
どうして何の才能もない一介の高校生にあそこまで親身になってくれるのか。僕に何を見ているのか、求めているのか。僕は先生みたいに書家になるとでも思っているんだろうか。だとしたら僕はそんな気はないし、才能もない。
「レイちゃんさ、この後に喫茶店でも行かないかい?喉乾いちゃった」
先生は言った。
「わたし・・」
「あー大丈夫、僕が持ってきたから」
懐を叩く。
「おご馳走になります」
レイさんは頭を下げる。
僕はどこか不思議そうにその光景を見た。
その対応はまるで僕の知らない彼女だからだ。
(こういうことが出来る人なんだ)
普段の彼女の様子が頭に浮かぶ。
汚れた制服。
全く手入れせもせず無造作に伸ばした髪の毛。
今でこそ違うが、ついこの前まで臭気すら放っていた。
何よりも決定的な雨の日の全身黄色づくめ。
そうした事象と、彼女の今の態度は凡そかけ離れた姿に思えた。
今の彼女は礼儀正しく、静かで、堂々として見える。
(彼女のこうした態度はどこから来るんだろうか?)
ひょっとしたら僕はどこか無意識に彼女を野蛮な人間として見ていたのかもしれない。だとしたら凄く失礼な見方をしていたんじゃなかろうか。僕の心の奥底、底の底にはどこか極めて卑しい思いがあり彼女に告白したんじゃなかろうか。
「君はヤリタイだけなんじゃないのかい?」
先生の言葉が思い出され、身体が勝手に震えた。
先生のあの発言は僕のそんな底を見て言ったんじゃなかろうか。
ああいう格好をしているから、それらしい言葉をかければ靡くんじゃないかという打算的思惑があったんじゃなかろうか。僕は彼女の何を見ていたんだろう。僕は・・・・なんなんだ。自分がわからない。
「じゃあ、ちょっと校門で待ってて。トイレ行ってくるから。あー校門だと濡れるからバス停にいて。あったよね?出た所に」
「はい、あります」
「あそこなら濡れないでしょ。椅子もあるし」
「はい」
「じゃあ、マーちゃん案内してよ」
「え?」
「だからトイレ」
「あー・・・はい」
トイレぐらいわかるでしょうに。
子供ですか。
「じゃ、後でね」
笑顔で手を振る先生、会釈をする彼女。
レイさんは僕とは目を合わせただけで何も言わず校門へ向かった。
彼女は僕の何を見ているんだろう。
そう考えたら急に怖くなる。

「先生ココです」
「ああ」
先生は気のない返事をした。
「上手くいったよ」
さっき迄の朗らかな雰囲気とは打って変わって真剣な顔。
まるで作品と向かい合っている時の表情。
とても静かで無表情なんだけど、ヒタヒタと迫り来る力があった。
僕の中に何かが張り詰める。
「え・・」
「彼女は明日から学校に来るよ」
「・・・じゃ、停学も」
「うん」
「良かった・・・・良かった・・・」
力が抜けていく。
しゃがみそうになる心持ちを辛うじて支える。
「スーさんはこのまま先生を続けるから」
「え?」
「君は腹も立つんだろうけど、そういうことだから。彼女も納得しているよ多分ね」
多分?
「そんな・・・」
「約束、覚えているよね」
「・・・はい」
「守っているかな?」
「誰にも言ってません」
「マッキー君にもだよ?」
「はい」
「ふぅ~ん、そうか・・・なら、そういうことだ。言ったよね、沈黙するのは簡単じゃないって」
「そう感じてます・・・」
「みたいだね。今ぐらいからそんな重苦しいんだったら続かないよ。見るからに『言いたいことがあるんだけど言えないんだ』といった風情が感じられる。そういう雰囲気を醸し出すと、誰だって否が応でも聞きたくなるもんだ。もっと心を自由に、普通にしておかないと」
「僕には無理です」
「無理と決めつているなら無理だろうな。そこは嘘でも『出来ます』って言わないと。君は紛いなりにも約束したんだから」
「・・・でき、ます」
「それだと単なる嘘だよ。出来ないと思いながら言うなんて失礼な話だ」
なんで急にそんなことを言い出すんだ。
「じゃあどうすればいいんですか?」
「出来ると言いながら、その一方で困難なものを充分に把握しつつ、出来るという思いで言えばいいだよ」
「そんな・・・」
「ほら。君はそうやって自分の可能性を進んで摘もうとする。相手の思いを受け取らず、受け取ろうと努力さえせず、よく考えもせず、自分の影だけを見て怯え、口にする。とんだ臆病者だと思わない?」
喧嘩を売っているのか?
「・・・」
先生は何が言いたいんだ。
僕を怒らせたい?
今回の事に巻き込んだ腹いせ?
だとしたら先生にはその権利はある。
「なんか文句あるのかい?」
「ありません」
「そうかな。僕には文句ありって顔に見えるけど。気の毒だよ。言いなよ」
「気のせいです」
「・・・まあいいや。もし君が約束を破ったらぶち壊すから。何時だろうが」
言っても卒業するまでの話じゃないか。
それぐらい我慢出来る。
「君は卒業したら終わりだと思っているだろうけど、卒業後でもぶち壊すよ」
「・・・それって意味があるんですか」
僕はムカついた。
「あるね」
「卒業しているのにですか?」
「ああ。君は若いからわからないんだろうけど、過去って言うのはね、無かったことには出来ないものだよ。受け入れない限りね。過去に抵抗を示した時点で逆流する。それまで欺いた全てのツケが何倍にもなって。それこそ借金の利子のように。いや、もっと酷いかな。過去の逆流は余計なものも巻き込むから」
「何が仰りたいんですか」
「別に何も」
なんなんだ・・・。
「君が言いたくて仕方がないって顔に見えたんでね。今後の君のために多分釘を刺しておきたいと思ったのかもね」
かもねって、自分のことでしょ?
「さて、行こうか」
「え?トイレは」
「もう済んだよ」
トイレ入ってねーだろ。
どうして急に先生がそんなことを言ったのか、僕にはまるで解らなかった。
「それと一つ言っておくけど、」
歩きながら再び喋り出す。
「君は何も知らないことになっているから。そのつもりで振る舞って欲しい」
欲しい・・・ねぇ。
「言っとくけど、これは君が望んだことなんだからね。忘れないで」
「はい・・・」
でも提案したのは先生じゃないか。
とはいえ、望んだのは間違いなく僕か・・・。
まさか本当に全てが丸く収まるなんて思わなかった。
今でも実感がない。
僕は夢でも見ているんだろうか。
どんな離れ業を作ったらこんなことになるんだ。
(こんなこと?)
考えてみると、どうして解決に漕ぎ着けたのか、僕は何も知らない。
「あの・・・」
「質問はなしだ」
(そうだった・・・)
「すいません」
「なんとも心許ないね~」
「・・・」
どうして先生は釘を刺したんだ。
さっきまであんなに和やかだったのに僕に対してだけはキツイ。
先生は僕を嫌いなのか、何か思うところがあって僕を恨んでいるのか?
何もかもがわからない。
「君はわかってないだろうけど、えらい道に踏み込んだんだよ。僕は言ったよね。彼女は止めておきなって。覚えてる?」
「・・・はい」
彼女はヤメテおきな?
確かに言ったけど、今の話と何の関係があるんだ。
それとえらい道とどう関係があるんだ?
判らないことだらけで落ち着かない。
それでいて、その理由を知っている人は問うなと言う。
それは僕自身が約束したからだ。
余計にイライラする。
「腹を据えな。もう後戻り出来ない所まで来ている。ここまで来たら突っ切るしかないからね」
「意味がわからないです・・・」
「だろうね。わからないから言っているんだよ。もし君がわかったなら入らなかっただろうし、途中で気づいたら逃げ出すだろうから、逃げ出さないように言ったまでだ。憶えておきな僕が言ったこと。ここから逃げるようなことがあれば彼女を決定的に傷つけることになるよ。それは君が自分を殺めるより厳しい現実が待つことになる。僕は普段から下らないことばかり言っているから下らない大人だと君は思っているかもしれないけど、」
「そんなこと考えたこともありません」
「いちをこれでも師匠だからね。君の人生を誰よりも真剣に考えているつもりだ。多分、ご両親よりも、君自身よりもね」
何を言っている?
なんでレイさんの停学取り消しの話をしただけなのに『えらい道』なんだ。
なんでこんな話になるんだ。
わからない。皆目検討がつかない。

僕の中で何も解決しないまま下駄箱につく。

先生は何時もの一本下駄を手にとった。
天狗が履くようなあれだ。
普段は雪駄なんだけど雨が振ると濡れるからと一本下駄を履く。
「最近は職人もいなくなってさ、下駄の質も落ちたよ。これなら君らの履く西洋のズックの方が出来が良いね。なんとも残念な話だ。下駄ってのはね、本来は擦り減ることを考えた上で作るものだけど、最近はその辺りの配慮がろくすっぽなされてない。下駄をわかってないんだろうね。単に歯が出ていればいいと思っているようですらある。形だけ真似て魂がこもっていない。仏像造って魂入れずだよ。本末転倒だ」
今度は何を言い出すんだ?
さっきから何を言いたい。
今回の件と関係があるんだろうか。
先生はまるで親しい人の訃報に触れたように鎮痛な面持ちでいる。
それにズックって、いつの時代の言葉ですか。
しかも西洋のって、もうスニーカーは日本でも定番ですよ。
そりゃ下駄職人だって売れないんだろうから気合も入れないでしょうよ。
「この下駄はまだいい。職人だよ。でも他は酷いものだ。売れるか売れないかで勝負している人間ってのは意地汚さや安っぽさが現れていけない。そんなのを履いているとこっちの人間としての質まで落ちる。仏像はね、魂が入っているからこそ仏像なんだよ。外面がどんなに精巧であったとしても、魂が入ってないんじゃ、それは単に仏像の形をしたオブジェだ。仏像じゃない。こうなったらプロは終いだ。食事で言うならどんなに見栄えがよくても素材に味や栄養が無ければ不味くなるのと同じ。この下駄はまだ職人の手によるものだけど、この下駄を擦り切ったら僕が幾ばくかでも満足するようなものはもうないかもしれない。この前、同じ店に行ったら丸っきりないんだ。この下駄を見せて、『この職人さんの下駄は?』と聞いたら、店員はわからないんだよ。『皆同じですよ』って。同じなわけあるかい。他にもいいのがありますからと勧めてきたから、勧めに従って見てたんだけど、高いだけでまるで駄目だ。下手な装飾や、やれなんだかんだと宣伝文句ばかり走るばかりで、ありゃ下駄じゃない。君みたいにスマートな人間なら『そうですか』で済むんだろうけど、僕は大人げないから言ったんだ『僕は下駄を買いに来たんだよ』って、そうしたら若い店員はポカンとしている。意味がわからないんだね」
僕もわかりません。
この話の趣旨が。
どうしてそんな話をしだしたのか。
「それを聞いていたのか店長が奥から出てきて『すいませんでした、何も知らないものですから』と頭を下げた。そして『この職人さんは亡くなったんです』と教えてくれたんだ。店長がその職人の話を少ししてくれてね、僕の下駄を見て『それをお買い上げて頂いた後に店に職人が来たんです。正直申し上げますと、そこでお客様の話をしたんです。少し腕が鈍ったんじゃないかって言われたって。情けない話、私は深刻に受け止めていなかったものですから。そしたら酷く落ち込んで、その後に凄い喜ばれたんです。{まだわかってくれる人がいた}って泣いて喜ぶんですよ。お恥ずかしい話、私もわからないものですから困惑しました。彼は気づいていたようなんです。それで気になって改修にきたんですが、丁度お客様が買われた後で。帰り際にお金を渡して{貴方にお金を返して上げて欲しい}っ茶封筒を、コレを渡されました。それで貴方が満足されるような下駄を作るって言って張り切っていたのですが・・・』だそうだ」
先生はどうしてこんな話を続けている。
でも僕はどうしてこの話を聞いてこんなにも胸が詰まる。
「僕はね『その下駄を是非とも買い上げたい。二十万ですか、三十万ですか?直ぐには用意出来ないかもしれないが必ず買いに伺いますから』そうお願いした。そうしたら店長が『店にはございません。ご親族の形見になっているそうですから』とね。僕は住所をお伺いし手を合わせに行ったよ。ご家族が喜んでくれてね。思ってもみなかったんだけど、『これは貴方に是非にと、その下駄を譲ってくれたんだ』僕の仕事部屋に飾ってあるでしょ。アレだよ」
そう言えば、何時から下駄が飾ってあった。
先生の仕事部屋にはモノが増えたり減ったりする。相対量はいつも変わらないんだけど飾られたり外されてりしている。絵や仏像の写真や彫刻や茶碗はわかるけど、「なんで下駄なんだ?」そうだ、そんなことをこの前思ったんだ。不思議に思いつつ、先生の考えることは僕には到底理解出来そうにないからと忘れていた。
「とてもじゃないけど鼻緒に通せなかった。近年稀に見る見事な下駄だよ。職人の気が注入された、魂のこもった本当の下駄だ。ああいうのを飾ってあるだけでも書は上手くなるからね」
「履けないですよね・・・そういうの」
「いや、いつかは履くよ」
「え?」
「あの下駄を履くに相応しい時が来たらね。道具というのは使うものだから。用の美は使わないことには得られない。使ってこそ出る味わいというものがある。でなければ職人さんに失礼だ。でも見ただけで履く前から履き心地がわかるようだよ。あれはいい下駄だ・・・。じゃあ、長々と悪かったね」
先生は職員室で借りた傘を手に歩き出す。
「また明日」
手を上げる時にはすっかり何時も通りの先生。
その表情や雰囲気からは先程のような思い詰めたものは感じられなかった。
先生は傘を下に向けながら一振りすると、傘は呼応するかのように綺麗に開いた。その姿はまるで侍が刀身についた血を振り払う仕草のように様になっている。
自然に伸びた姿勢。
腕の動きは舞踊のように滑らかで、その指は長く白く女性のように美しかった。「僕は筆より重いものは持ったこと無いから」と笑う先生が脳裏をよぎる。
外はまだ冷たい雨が降っている。なのに肌着も着用せず相変わらずの作務衣一枚の出で立ち。
雨は先ほどよりか少しは落ち着いただろうか。
「ありがとうございました」
僕は聞こえるか聞こえないかわからない声をかけ頭を下げた。
下げながら涙が滲む。
改めて先生のしてくれたことの大きさが静かに覆いかぶさってくる。
絶対に無理だと思った。
先生が出てきて解決する道理がない。
どんな魔法を使って解決したんだろうか。
どんな原理で、どんな理屈で。
それとも圧力か。
いや、あの校長の笑顔は圧力じゃ得られないだろう。
もっと別な何か・・・。
なんにせよ本当に良かった。
意図せず頭を下げ続けている僕の姿を先生が見ているとも知らず。
僕が顔を上げる頃には先生の後ろ姿はすっかり小さくなっていた。
雨が降りしきる中を一本下駄の先生が歩いているのを僕はしばらく見つめた。

Published in黄色いレインコート麗子

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